会長→会 クラブ員A→A クラブ員B→B |
A: まず、クラブ設立当時の話をうかがいたいのですが 会: えーっとですね、長くなるので手短に話しますね。 まず69年にS30がデビューしまして、その衝撃はものすごいものがありまして、もうどうしようかと… その場でSRの事はもう頭からはなれてしまって、そのまますぐS30の赤を買ってしまったんですよね。 で、当時のウチの従業員も買い、その友人が買い、お客も買いとあれよあれよと言う間にZが集まってきたんですね A: なるほど。 会: それでね、当時イスズに勤めていたYさん(初代副会長)とこれだけいるならクラブでもやってみようかと(笑) とにかく何年続けようとかクラブ員をいっぱい増やそうとかじゃなく、もっと自然な形でスタートしたんだよね。 A: じゃクラブ名もそのとき決まったんですか? 会: もちろん! 多分ウチのクラブ員の皆さんは何日も考えたんじゃないか、みたいなものがあるかと思うんだけど "パッ" と決まったんですよ。 当時Zの代名詞のように使われていたダットサンスポーツカーをそのまま使おうと。 とにかく何十年も続けて歴史あるクラブにしようだなんて、誰も思ってないですよ。 なにしろ、30年以上続いて一番ビックリしてるのはこの僕なんだから(笑) A: そうなんですか。いや僕らは長く使われても飽きのないとか響きが良いとか色々考えたのかな、なんて思ってました。 会: まったくそんな事はなかった。 それとね、クラブ員の皆さん名付け親は僕だと思っている人がほとんどだと思うんですけど、僕じゃないんだよね… A: ・・・・・ B: ・・・・・ 会: 実は初代副会長のYさんなんだ。彼が何気に「ダットサンスポーツカークラブ」と言って、 「あ、それいいじゃん」みたいな。 とにかく楽しい雰囲気の中クラブ設立とクラブ名が決まりました(笑) A: いや〜、意外でした。でも会長、結構楽しいですね、この頃の話(笑) じゃ設立は69年の… 会: 11月です。 A: 僕が小学校3年のころですね。 B: すいません、僕まだ生まれてません(笑) 会: まだBさんは生まれてなかったんですか。 まいっちゃったなぁ(笑)…… まあ、話を進めましょう。それでね、ツーリングしようという事になりまして、 日光に行ったのが最初です。 ものすごい注目度でした。 A: 今僕たちがツーリング行っても注目されますからね 会: そりゃもうハンパじゃなかったですよ。 それでクラブ員たちもその気になっちゃってあそこへ行こう・ここへ行こうと毎月のようにツーリングしてましたね。 B: 年に何回くらいですか? 会: 7〜8回は行ってたと思う、でもね、注目はされるものの、たまに視線が冷たく感じる事もあってね。 というのは当時ああいう車に乗っている人は愚連隊扱いされてる時代でね、 B: 愚連隊ねぇ… 会: ところが 74年1月2BY2が発売されてから少し変わってきたんですよ。 というのはね、ただでさえ不良扱いされてしかも2人乗りじゃないですか! そこへ4人乗りのZが出たんですよ! そりゃもうかなりのクラブ員が乗り換えましてね。 「家族がうるさかったんでこれで堂々と乗れる」ってね。 A: うん、わかる様な気がします。 会: それだけじゃないんです。 2BY2が発売されてZ人口が増えたんだ。 要するに世間の認知度が上がったって言うことなんだよね。 やはり日本は2人乗りの文化という物があまり成り立たないんだよね。 アメリカと違って… B: そうか……世間の目も柔らかくなりZに乗るオーナーが増え、そしてクラブ員も一気に増えたと、そう言う事ですね! 会: そうなんです。 もう近県の方から地方の方まで入会希望の郵便が毎日の様に来ましてね。えらいことになっちゃったなと…… だってそうでしょ、35台でスタートしたクラブが350台になったんですよ。10倍ですよ、10倍! Yさんは「こんなに増えてどうすんの!」 なんて喜んでたけどね(笑) A: 僕もその当時からクラブ員だったら大騒ぎしてたと思う(笑) 会: でも僕は不安のほうが先だったんですね。 だってクラブ員全員にフォローが出来ないじゃないですか! そうしたら各地区の有志が支部を作ろうといってくれましてね。 それですごく気が楽になってね… まぁ当時のスタッフには感謝しているんですよ。だってこっちから支部やってくれなんて頼めないですよ、 大変だから! B: 確かに大変ですよね…… 会: でも皆さん本当に良くやってくれましてね。 それでちゃんと編成をしようということになりまして、各支部がこの74年から増えていったんですよ、 各支部ごとのツーリングもこの年から始まったんだと思います。 ある意味DSCC元年といえる年だったんじゃないかな…… A: なるほど。これで少しクラブがどう生まれてどう変わっていったのかわかってきました。 でも、2BY2がきっかけで大きくなったんですね。 会: 2BY2が出てなかったらどうなってたかわからないですよ。 日本でZが売れてくれなきゃクラブ員だって増えるわけないじゃない! 僕は2BY2ってすごく大事だと思う。 特に日本ではね…… B: ところで会長、このころって入会金ってあったんですか? 会: もちろんありました。 A: 幾らだったんですか? 会: あのー ビックリしないでよ。 絶対だよ(笑)…… ¥15000でした。 A: ・・・・・ B: ・・・・・ 会: だからビックリしないでって言ったじゃない(笑) 何よその顔(笑) A: あの当時で¥15000ですか 会: でもねぇ、高すぎるとか文句言う人はいなかったなぁ…色々特典みたいなものがかなりあったんでね。 当時入手不可能だったメーカーの作った整備書とかね。それだけでも価値があったみたいです。 まぁ30年も前の事だから覚えてない事も多いんだけど、資料が見つかったらこのホームページで見せますよ。 B: よろしくお願いします。話は変わりますがこの頃のツーリングエピソードが何かあったら聞かせてください。 会: そうだなぁ…一番想い出に残っているのは 74年から活動が活発になったんだけどツーリングがやりづらい状況になってしまって… A: 何故ですか? 会: 世間で集団危険行為という問題が騒がれ始めて DSCCのツーリングはまさにそれにあてはまってしまったんですね。 でもね、活動をやめるわけにはいかないでしょ。 クラブ員も「みんな法定規則も守っているし何も悪い事してないじゃないか!」ってね。 あのときのクラブ員の団結力はものすごいものがありましたね。これで僕も急に元気になっちゃってね、(笑) 「よし、堂々とツーリングしよう! 当局に何一つ文句は言わせないようにしよう!」って B: それでどうしたんですか? 会: 「○月×日、Z何十台でどこを通ってどこどこへ行きます」 という書類を当局へ提出してツーリングを行うようにしました。 最初のころは当局も色眼鏡で見てたけど、何も問題が起こらないでしょ。 だってツーリングを楽しんでるんであって暴走行為をしてるわけじゃないんだから! そしたらさ、当局も認めてくれる様になったんだ(笑)。 東名高速を走るときに前後にZのパトカーをつけてくれてね。みんなでおまわりさんと写真撮ったりしてね(笑) すごくうれしかった…… A: そのときの写真無いですかね 会: 見つけてみます。 B: そんな事があったんですね。じゃその後は順調に…… 会: うん。そこからはもうイケイケドンドンでしたね。 そうしたら今度、カー雑誌が僕たちに興味を持ってくれて色々なカー雑誌にツーリングの事が載るようになりました。 まぁ当時ネタもあまりなかったんだろうね。毎月のように雑誌に載りましたね。 クラブ員はものすごく喜んでくれて、それがまた勢いになったという事です。 もう何をやってもうまくいってしまう(笑) Yさんとよく「すごいクラブになっちゃったねぇ」と少しばかりうかれちゃいましたよ(笑) ところがもっとすごい事になっちゃいまして…雑誌の記事を見た人からの入会が殺到したんですね。 殺到とはまさにこの事だなと痛感しました A: 何名くらいからですか 会: いやーわからない。数えられる数ではなかった。 3ヶ月仕事にならなくってね(笑)。 もうてんてこまいでどうにもなりませんでした。そこで再度編成をしたら… クラブ員が1000名になってました。まぁざっと話して70年代はこんな感じですかね。 もうすべて自然な成り行きでクラブが大きくなっていった事が少しわかってもらえると思います。 A: 今の時代、これと同じことをやれといわれてもちょっと無理でしょうね。 会: そうだと思う。やはりあの時代だから出来たんじゃないかな。僕もまだ若かったしね(笑)。 でね、70年代の終わりのころ、RX−7が発売されて、ビックリしてね。 あのスタイル、4人乗り、リトラクタブルのヘッドライト… 実はZはこれで終わりかななんて思ったこともありました。 とにかく世界中で評判良くてね。 でもS130が出てホットしたというか、これで80年代も大暴れしてやるぞと、そう思いましたよ。 B: 70年代のことは良くわかりました。 じゃ会長 また思い出した出来事があったら話してください 会: わかりました。 でも今回色々整理して出てきた写真ホームページに載せるんでしょ。まいっちゃうよね。 当時の男性、女性の服とか髪型とかね。時代を感じますよ。本当まいっちゃうよ、 もう…(笑) A: みなさんアフロヘアーですね(笑) 会: すいません・・・ その件は、本当カンベンして下さい(笑) |